六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

介護保険をめぐる、それぞれの立場と本音。

介護保険て、いったい何?
介護保険に関して、多くの日本人は良くは分かっていない。
一般の人々の立場から見れば「お爺ちゃん、お婆ちゃんの介護を保険で賄うんでしょ?家には関係ないわ。」って感じだろう。
そして、例えば自分の父親や母親がいざ介護が必要になった時に突然に大慌てしなければならなくなる。
「え?要介護認定?」「要介護度?」「え?すぐに介護してくれないの?」「なによ支給限度額って?」
そう、その時になって初めて介護保険の本当の姿を知ることになる。


お年寄と、そのご家族の立場で介護保険を見ると…。
先ずは要介護認定。医療保険と違い、被保険者になってもすぐに保険証が交付されるわけでは無いのが介護保険。要介護認定を受けて、自分の要介護度が明らかになって初めて介護保険証は交付される。
現状では要介護度は7段階。要支援1と2、要介護1~5まである。
要支援1が一番介護度が低く、要介護5が一番介護度が高い。
この要介護認定、申請後に、まず訪問調査員が自宅に訪れて本人の介護に関わる様々な事柄を調査することから始まる。そしてその調査をもとにコンピューターで一次判定。これは介護にかかる手間を数値化し、その数値によって要介護度を振り分けるというもの。そしてこの一次判定をもとにして、有識者で構成された介護認定審査会によって二次判定が行われる。主治医の意見書や、個々の諸事情を加味して正式に要介護度を決定するのである。
しかし、このコンピューター判定自体どうにも怪しい。この介護の手間に関する数値化は介護施設における「介護の手間」を統計したもので、介護のプロが行う、しかも設備も整った状態での「手間」を数値化したものだからだ。それに「手間」って言い方もどうかと思う。
正式に行政側が「介護の手間」って言葉を使っているのだ。なんだかお年寄りに失礼な気がするのは僕だけだろうか?
それを受けた2次判定の更にいい加減なこと。
ほとんどコンピューター判定が覆ることなどない。この有識者たちは、それぞれの仕事を抱えながら、介護認定審査会に出向いており、審査会で時間を取られると自分の仕事が進まなくなる。だからサッサと審査会を終わらせたい。顔も見たことのないお年寄りのデータだけ渡されても、コンピューター判定を覆せるだけの意見なんて言えっこ無い。
かくして、ええ加減なシステムで決められた要介護度が、それぞれのお年寄に振り分けられる。
しかし、この要介護度…。支給限度基準額と深くかかわっていて…。もちろん要介護度が低いと支給される金額も低くなるのである。要介護度が低いと、受けられるサービスも極端に少なくなっていく。
だから、こんなことが起こる。
「隣のお爺ちゃん、あんなにスタスタ歩いてるのに要介護3だって。うちのお爺ちゃんなんか、ほとんど寝たきりなのに要介護2よ~。」ってなことが…。
高い介護保険料を少ない年金の中から毎月天引きされているのにも関わらず。いざ、介護が必要になっても、実際にはすぐにサービスを受けられず、サービスに制限まで加えられる。
まるで詐欺みたいな保険だ。



さて、今度はサービスを提供する事業者の側から見た介護保険。
まず、度重なる介護報酬の削減。この業界がサービス業である以上、事業運営上の一番の支出は人件費だ。介護報酬が減らされれば減らされるほど人件費に割ける資金も減るということ。だから、介護に携わる人々の給料は、ほとんど上がらない。それで離職者が増えて行く。事業がまともに運営できないくらいに人材がこの業界から消えて行ってるのだ。
また介護保険を運営するための、膨大な事務量。介護保険法が改正されるたびに、この事務量もどんどん増えて行き、各事業者を苦しめている。お年寄にケアを提供する為に膨大な量の事務をこなさなければならない。これが無ければ、もっともっとお年寄りと直に向き合えるはずなのに。
更に、経営努力を重ねて黒字が出ると、行政の側から「なんや黒字やんけ。ほんなら介護報酬削減な!」とまるで黒字を出すのが悪でもあるかのように扱われ、経営努力をする気持ちを萎えさせる。
そして、ええかげんな事業運営をしようが頑張ろうが介護報酬は同じなので、頑張る気も失せる。
もちろん加算というシステムはあるが、これも両刃の刃で、少しでも行政からケチをつけられると没収の憂き目に合う。
とにかく複雑怪奇な介護保険のおかげで、苦しい運営をしなきゃならないし、仕事量も増えるばかりだ。旨味を感じなくなった営利企業なんかは、ボチボチと、この業界から撤退し始めている。



さて、最後に行政の側からの視点。
とにかく介護保険による支出は10兆円に膨らみ、このままお年寄りが増え続ければパンクしてしまう。だからとにかく、節約志向。
お年寄をコストの高い、医療の現場から、比較的にコストの安い介護の現場へ。そしてもっと安価に済ますことの出来る在宅へ移行させていくことが必要不可欠。


介護保険スタート以前、老人病院にお年寄りが溢れて、医療保険が破たんしかけた。だから介護保険という新しい財布を作って年寄りの死に場所もできる限り医療から遠ざけた。そうしないと大量のお年寄、多死社会はどうにもならん。とにかく日本は経済活動中心の国やねん。生産性の無い人々は早々にこの世から退場してくれた方が、都合がええ国やねん。とにかく生産性の無い人に出すお金は絞るに限る。
でもね、防衛費5兆円ですわ。介護保険の収入の内訳は、被保険者から徴収する保険料が5兆円。国が2.5兆円、地方自治体が2.5兆円。
国が負担してるのって4分の1なんですよ。国民から血税吸い上げてる国が。
防衛費からもう少し融通するとか、消費税アップ分から融通するとか、無駄な公共事業とか既得権益固守の天下り法人からとか、工夫すればもっと介護にお金回せるはずなんですがねぇ…。



まぁとにかく。介護保険に無関心な人々に、もう少し関心を持ってもらわねばこの状況は改善されないでしょう。だから介護に携わる人々がもっと声を大きくして訴えて行くべきなんです。
共に頑張りましょう!

笑うから楽しい。

「人は楽しいから笑うのでは無い。笑うから楽しいのだ。」
どこかで、そんな言葉を聞いた。
10年ほど前だった、まだ20代であった僕の心にその言葉は強く響いた。


この言葉の指す意味は笑顔でいれば、自分も周囲も楽しくなって人生が好転するということだろう。
「笑う門には福が来る」の同議。


僕はどちらかというと人から不愛想だと言われていた。
簡単に白い歯を見せる奴は信用できないし、ヘラヘラして生きて行くなんて僕にはできっこない。
だからこそ、この言葉を重く受け止めた。


けれど、それは思ったよりも難しく40歳を目前に控えた今でもなかなか上手くは笑えない。
まだまだ修行が足りないなぁと思う日々である。


この仕事に就いてから、沢山笑いもしたけれど、悲しみや怒りの表情を見せることだって少なくは無かった。
お年寄が亡くなれば涙が出る。
後輩を指導していて、同じことを何度も言わせる者に対しては怒りも感じた。
上司に対して、理不尽だと牙をむいたこともある。
やめていく同僚を悲しみと怒りの入り混じったような感情で見送ったことも。


どんな時にも笑顔でいれたなら良いのになと思う。
自分が変わらなきゃいけないのは良く分かっている。


間もなく僕も「不惑」
迷い多き僕が、その様な年になるのだ。


明日から一つでも多く笑顔を見せられるようにしよう。
そうして、福祉の現場に圧し掛かっている黒い雲のような重苦しい空気を。
それを振り払う力を持てるように努力を続けたいと思う。

世の中の仕組みと人として生きることの意味。

何のために自分は生まれてきたのだろう?
生きていれば楽しいことは沢山ある。
でも、楽しいのと同じくらいに苦しいこともある。
半々なら、よけいに考え込んでしまう。
生きている意味があるのだろうかと。


世の中の仕組みは、知能と文字を有する人間が決めていると、人間だけが錯覚している。
けれど、宇宙の歴史から見れば、いや、地球の歴史から見ても人類は新参者で。
我々が考え得る範囲のことなどたかが知れているし、自然の大きさには到底かなう訳がない。


であるならば、人間が考え出した法や秩序なんてものは、実に小さいもので、そこで蠢いている自分なんかはもっとちっぽけで。
そんな風に考え始めると、生きていることの意味を見失ってしまいそうになる。


つまり、自然の大きさから見れば、人間の100歳も0歳もほとんど変わりが無いはず。なのに人々は0歳で死ぬことに多くの悲しみを感じ、100歳で死ぬことは当たり前の様に感じる。
将来的に生産性のある存在に、より多くの期待をしたりするのが世の中の仕組みなわけである。

けれど100歳の人も、100年前は0歳であったわけで、これまで生きた道筋を知ることが出来たなら、そこには途方もない慈しみを覚えるはずなのだ。
しかし、この世の中の仕組みはその辺を理解していないようで、まるで年をとることが罪でもあるかのように、人々は年老いてしまったものに対して冷たい。


いずれは誰もが…もちろんあなた自身も、年老いて行く。

そろそろ、人として生きることの意味を考え、年老いたものへの慈しみを感じることの出来る世の中の仕組みを構築するべきではないのだろうか?
介護保険の保険料は、現状では40歳以上の者が支払うことになっている。
社会保険方式である限り、被保険者が保険料を支払うことが当たり前で、そうではあるのだが…。
パンク寸前の介護保険。全年齢で、賄う必要はないのだろうか?40歳以下の人も含めて、皆で支える仕組み。年金生活で苦しい生活をしている人々から、お金を巻きあげて賄う介護保険なんて、どうなのかって思うわけです。

未曾有の超高齢社会を迎える日本。
本気で税方式(国民皆で負担し、介護保険の財源とする)によって、介護を賄う方向を探ってみても良いのではないか?
あなたの親も、あなたも。いずれは年老いて行くのです。
誰もが安心して年を取ることの出来る世の中の仕組みを作っていく必要があるのではないですか?
人として生きる意味は、そこにこそ有るのでは無いかと考えるわけです。