六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

禅の精神について、考えることがある。


その真髄は人生を「仮住まい」とするところにあると僕は理解している。
今を生きている、この肉体は実は自分のものでは無く仮のものであって、死にゆく時に天へと返すべきものであるという思想。
だからこそ、物を持つことや人から称賛されることに執着せずに生きるべきだ。
いずれは天へと返す身なのだから、億万長者であろうが貧民であろうが、そんなことには何の意味も無いということなのだろう。


禅問答と言う言葉もあるくらいだから、簡単に理解の出来る話では無い。


とりあえず、物への執着を止める。そして、他人と比べて優劣を付けることをしない。あるがままの自分を受け入れる。時の流れに逆らわずに今を生きる。そういうことなのだと思う。


だが妄想多き人間は意外とそういう禅的精神で生きることが難しかったりもする。


「莫妄想」という禅語がある。
これは一切の妄想を断ち切れ、という教えだ。
単純な解釈で言うと、悩みの根源は、何かを欲するところから生じる、だから何も欲しがるなということなのだろう。「妄想」を「欲望」と転換してみればより分かりやすくなるように思う。
欲望を捨てれば、生きることは苦しく無くなるということだ。



けれど、人類の歴史は欲望の歴史でもある。だから禅的精神は理解が難しい。
欲望が文明を興し、産業を発達させたことは紛れもない事実なのだから。


「長寿」ということを捉えたって、そうだろう。
医学の進歩は、人類の「長く生きたい」という欲望の果てに存在する。
それが、生んだ長寿社会は禅的精神からいうと「莫妄想」の対極にあると言っても良いだろう。
禅的精神で捉えれば、日本の高齢社会は妄想=欲望の権化だと考えることも可能なのだ。


だから僕は思う。禅的精神から学ぶことは多いが、それが否定することを全て鵜呑みにすると極端なニヒリズムに発展しかねないのだと。
極端な話。死を恐れずに滅私奉公、特攻機に乗り込んで自爆することすら容認しかねない、そんな匂いすらするのだ。


物事を考えるときに最も大切なのは「中庸」だと僕は常々思っている。
バランスを持って、物事を真ん中で捉える。偏らないこと。そこが実はすごく大切なのだと。


だから禅的精神についても、そこから多くを学びつつ、中庸の心は失わない。
禅的精神を極端に解釈することで生じる、盲信からは一定の距離を置く。


そんな心持で、座禅を組む。そうすると、心が嫋やかに、清々しくなる。

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