六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

7月に僕の妹の義父が66歳で亡くなった。
そして先日、うちの嫁さんの従兄が38歳で亡くなった。



二人とも癌だった。


そして僕の親父も、2度目の肝臓癌のオペを、ついこの間に行った。
親父の場合は幸い、死に至ることなく、至極、まるで何事も無かったかの様に退院。


癌による死が身近な人々に影を落とした時に、何とも言えない気分になるのは僕だけでは無いだろう。


死について考えるときに、僕は思う。
それは決して避けられないものであるし、生きとして生きる者全てが、その瞬間に向かって一分、一秒を生きているのだと。


それが、38歳に訪れるのか66歳に訪れるのか、あるいは僕の父親の様に死と隣り合わせになりながらも、もう少しだけ生きることが許されるのか。
人それぞれに死の訪れやその状況は異なるものだ。死神を信じるわけでは無いが、そこには人工の余地の無い自然の力が働いているようにも思える。


38歳で逝った彼は、どんな思いだったのだろう。そしてそんな若い自分の息子を看取らねばならなかった母親の気持ちはどんなものだったのだろう。
66歳なら、その受容の仕方も違ったのだろうか。
そして、癌を克服できないまでも、つまり生きることの出来る歳月に限りがあることを知りつつも生き永らえた僕の親父の心境は、どんなものだろうか?


人それぞれに死生観がある以上、その答えは、個々の想像の範疇を超えることが出来ないだろう。


ただ想像してみる。
余命宣告された時の僕自身の姿を。
例えば「あなたの命は、あと半年です」と宣告を受けたとする。
その時の気持ちを、朧げながらにも、想像してみる。


なんとなくではあるが、死に際を飾りながら、狼狽えることなく逝くことができるような気がしないでも無い。不謹慎だなとも思いながら、必死で癌と戦うことだけが正解では無いという気持ちが僕の心のどこか片隅にはある。


死を受け入れる。身近な人や、自分自身の死。


誰しも死にたくは無いが、その時は必ず訪れるし、必要以上にその事に恐怖することは生きている間に無意味な時を生じさせる原因とはなりはしないだろうか?


病、そして死に向かうことを受容する心持も実は必要なものなのかも知れない。









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