六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

ブログを始めた理由は2025年問題。

介護業界でよく言われるようになった「2025年問題」
2025年に団塊の世代、約800万人と言われる人々が後期高齢者(75歳以上)へと移行する。
要介護認定を受ける人の割合は後期高齢者が約8割。つまり65歳から75歳までは比較的に元気なお年寄りが多いが75歳を超えた段階で体の一部に障害が現れたり認知症を発症する可能性が高くなっていくということだ。そのラインを一斉に800万人の人々が超えていく。
今でも、介護保険の支出は10兆円を超えておりパンク寸前、それでも満足な介護を受けられずにいるお年寄りも多い。介護を担う介護労働者の数も足りず2025年までに少なくとも後100万人は増員する必要があると試算されている。
介護に疲れての殺人、徘徊する認知症のお年寄り、介護報酬の削減、施設職員による虐待…
そういった嫌な現状が、今でもあるというのに、10年後にそのような「お年寄りビッグバン」が待っている。これまで以上に超高齢社会の深刻さが一気に増していくというわけだ。
さぁどうする?
とりあえず、僕が今働いている現場で説いて回っていることをもっと多くの人に語りかけてみよう。
初めの一歩。そんなつもりでこのブログを立ち上げた。


介護に携わる多くの人々と意見を交わし、本当に豊かな日本。この国に生まれ育ち、そして死んで行くことに誰もが喜ぶことが出来る日本。そういう方向に皆の思いを繋げていければと思っている。
「あぁこの国に生まれてよかったなぁ」って死の間際、最期の最期に言える。
大切なことだと思うのです。

大学を出てはみたけれど…

僕は関西にある二流、いや、三流の私立大学を卒業した。
一応、法学部だったがそっち系の仕事には全く興味がわかず、旅行好きだったこともあって大阪の中堅旅行会社に就職。営業でバリバリと働いた。
営業と言っても、自分のお客様に対する添乗も主要な業務の一つで、ほとんどは国内だったけれど結構色々な場所に行けて、それはそれで楽しかった。
だが、営業の悲哀は他の所に存在した。
「こんだけ客送ったるさかい、こんだけの予算で泊まらせえや」「あほ。ほんなら自分とこだけで客呼んでみてみ!」
まるでヤクザの世界。宿や交通機関を買い叩く仕事…嫌になって辞めた。
その後も他の旅行会社や怪しげな電気椅子を年寄りに売りつける仕事なんかを転々とした。スーパーで牛乳を売っていたこともある。
牛乳を売っていた頃、おり悪く雪印の食中毒事件が発生。例の黄色ブドウ球菌。
大量の牛乳を廃棄する気持ち…。分からなでしょう?
やっぱり悲しかった。
それで結局嫌になって辞めた。
そして、僕には一生を捧げられる仕事を見つける必要があると一念発起する。
いよいよ介護の世界に足を踏み入れていくことになるのだ。
運命の導きか…それとも悪戯か…
その時には介護保険は見切り発車されていた。

じいちゃん ばぁちゃんダダダダ~ン!

1990年代後半、僕は未だ学生の身。うだるような暑い夏のある日。
その日、友人にお婆ちゃんのお見舞いに誘われて隣町の病院を訪れた。
6人部屋のカーテンで仕切られた空間の一角に、彼女のお婆ちゃんは横たわっていた。
見た目にも分かるぐらいのフケや垢。匂いも普通じゃない。お婆ちゃんは死んだ魚のような目をしている。「こんにちは」と声をかけてはみたが、何の反応も見られない。
周りに目を移すと、ベッド柵に手を縛られて点滴を受ける老人。車いすから立ち上がることが出来ないようにベルトで固定された老人。隣からは、ほぼ絶叫に近い声も聞こえる…
「動物園よりも劣悪な環境だな。よくこんな所に…」
口には出さなかったが、自分の身内をこんな所に入れている友人に対して心の中で悪態をついた。


これが日本で生まれ育ち、懸命に生きてきた人々のなれの果て。


数日後、なんちゃってロックバンドで作詞を担当していた僕は、この体験をベースに一曲を書き上げた。
タイトルは「じいちゃん ばぁちゃんダダダダ~ン!」
今思えばふざけたタイトルだ。歌詞にしても、相当にふざけている。
「じいちゃんばぁちゃんダダダダ~ン!
介護だ福祉だダダダダ~ン!
姥捨て山に捨てられて!(Hey!)
じいちゃんばぁちゃんダダダダ~ン!」


そんな僕が数年後、介護業界に足を踏み入れることになる。介護保険が始まった翌年のことだった。