六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

死に向かうこと。

僕たちの仕事において、お客様と言えばそれは間違いなくお年寄りで。
お年寄りは僕らより随分長く生きてこられていて、おそらく死にも僕らよりも随分と近い。


ピンピンコロリが一番だと言うけれど、そんな綺麗な死は稀で。
どちらかと言うと、老衰によってゆっくり、じんわりと死に向かう人の方が多い。


死に向かう過程で、言葉を失ったり、歩くことが難しくなったり、座ることすら自力では出来なくなったりしていく。そう言うのを僕らは重度化と呼ぶ。
人それぞれに個人差はあるけれど、多くの人々がこの重度化の過程を経て死を迎えることになる。


もちろん重度化を、ただ見ているだけが僕らの仕事では無い。できる限り今、持っておられる能力を維持する為に努めるのが介護職の重要な役割だ。
自分では動けない方を、だからと言って動かないままに寝たきりのままにさせていては重度化の加速は避けられない。寝たきりのままにしておくことで、筋力は低下し関節は拘縮し、皮膚の壊死だって内部疾患の憎悪だって進行させてしまう。こういった諸症状を廃用症候群と言うのだが、それを可能な限り発症させないことが僕らには求められる。


重度化の過程で、僕らが最も悩むのが「食事」の問題だ。
自力で食事を食べられ無い方に対して僕らは食事を介助して差し上げる。身体的に、例えば腕が動かない場合であったり、精神的な部分で目の前にある食事を食べ物として認識できなかったり。そう言った方々に僕らは自分の腕や頭を使って食事を提供する。
しかし、それにも限界がある。
ひとつは誤嚥の問題。食物が口に入る、それを噛んで喉の奥へと送り込み、食道に向けて飲みこむという一連の「食べる」という作業。そのどこかの場面に障害が現れた時、喉を詰まらせて窒息したり、食道へ送り込むことが出来ずに気管へと食塊が侵入し肺炎を引き起こしたり。そういった「誤嚥」と言った状態を引き起こす。
食事をしなければ死に近づくけれども、逆に食事をすることで命の危険にさらされるということにも成り得る。
もう一つは身体が食事を受け付けなくなった時。食べても吐いてしまう、水分を摂れば摂るほどに体が浮腫む。これは完全に身体が死への準備をしているということだ。無理に食べて頂いても、例えば嘔吐、あるいは激しい下痢便という結果を引き起こすし、脱水だからと点滴をしたところで身体が水分を吸収することが出来ずに全身がブクブクにブヨブヨに腫れてしまうだけだったりする。


そういう時に、どこまで食事や水分を提供すれば良いのか?
僕らは悩む。目の前のお年寄りに「どうしたいですか?しんどくても、もっと食べたいですか?生きたいですか?それとも…」と尋ねたところで、答えが返ってこないことの方が断然に多い。
家族にしても、自分の親や夫や妻の死を目前にして「もう食事も水分も、要らないです。」とはなかなか決断できない。だってそれは自分の家族の死を受け入れることになるのだから。永遠の別れを、意味するのだから。


それでも。決断は必要だ。死を受け入れることが、やはり必要なのだ。
無理に食事を提供したところで、苦しみを増やすばかりになってしまう。嘔吐や下痢や浮腫。点滴をすれば脆い血管から出血し身体が痣だらけになったりもする。
本人にとっては苦しいだけだったりするのだ。
逆に、死に向かう段階で脱水状態に陥ると、死の苦しみが和らぐことも事実としてあるようだ。脱水に陥ると、意識が薄れて朦朧とし、死に伴う苦しみを緩和してくれる。まるで、草木が枯れて、静かに永遠に、大地へと帰って行くように。




死へ向かうことを、受け入れる。肉親の死を受け入れる。
超高齢化の現代だからこそ、医学の進歩が行き過ぎた感のある今だからこそ、必要な心持なのだと、僕は日々思う。







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