六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

ターミナルケア。施設で看取るということ。

お年寄りが増えた社会。それは多死社会でもある。
これまで、日本人は病院で死を迎えることが主流だった。
だけど、多すぎる死を全て受け入れるほど病院のキャパシティーも豊富では無い。
つまり、病院以外で死を迎える人々が増えることは必然であるとも言える。
行政側からしても、そのような政策誘導を行っている。
お年寄りを、病院というお金のかかる場所から追い出し、少し安価な介護施設へ。そしてよりコストのかからない在宅へ。そういう流れを作っていることは明白だ。
どこの特養でも、きっと自施設で亡くなられる方が大幅に増えているのではないだろうか?
以前であれば、何か急変があれば病院へ搬送し、入院してもらうというのが一般的なケースだったと思う。そして入院して回復されなければ、そこで亡くなられる。
でも、今はご家族に看取りについての意向を前もって確認し、回復の見込みが無い場合においてはそのまま施設で看取りを行うケースが増えている。
実際に僕の施設でも昨年度亡くなった6名のうち5名は、自施設で看取らせて頂いた。


正直に言うと、僕は看取りが苦手だった。
だって、いままで生活を共にしていたお年寄りが息を引き取る様を見届けなければならないのだから。
食事が食べられなければ胃瘻でもなんでもして、命を繋ぐべきだと考えていたし、急変があれば率先して救急搬送を主張していた。
けれど、ある看護師との出会いが、その考え方に変化をもたらした。
彼女と共に働く中で、看取りへの考え方が徐々に変化していったのだ。
「死」とは特別なことでは無い。怖いことでもない。自然の流れで行き着く先であり、90年も100年も生きてきた方に、これ以上頑張れと言うのは、どうなのか?
延命することにより、より多くの苦痛を与えることになるのではないか?
例えば「点滴」にしてもそうだ。食事も水分も入らないお年寄りに、針を刺して水分を中心に補う。
人間は脱水状態になると体内でモルヒネ的な物質が分泌され、眠るように、逝くことが出来る。
けれどそこで点滴をしてしまうと、脱水から解放されると共に眠っている状態からは叩き起こされ、より多くの苦痛を感じなければならなくなってしまう。
そういう話を共に、学びあいながら毎回のターミナルケアに取り組んだ。


そして、いざ急変があると、彼女は深夜だろうが早朝だろうが、とにかく駆けつけてくれる。
お年寄のそばに、そしてそこに一人で対応していた不安一杯の介護職のそばに、絶対に駆けつけてくれるのだ。
そういう彼女の姿勢は、介護職の、お年寄りの、そしてお年寄りのご家族のターミナルへの不安を拭ってくれる、安心感を与えてくれる。


医療面のバックアップが十分では無い、特養においての看取り。怖くて当たり前なのだが…。
僕は彼女のお蔭で、怖くは無くなった。
それは、そういう看護師に出会えたからだ。


これから更に介護施設での看取りは増えて行く。なぜなら、この日本は未曾有の多死社会を迎えるのだから。
故に言う。彼女のような看護師を、多く育て、看取りに対して多くの人が持つ不安を拭い去るべきなのだ。
在宅においても同様。訪問看護の重要性に、もっともっと着目するべきだ。


もちろん、介護職もその専門性をいかんなく発揮して、お年寄りに最期の時をより快適に過ごしていただけるよう努力するべきであり、そういった意味での教育はまだまだ不十分だと言える。
未曾有の多死社会。それは、現実に今始まっている。
どこで、自分が死ぬのかは誰にも分からない。病院なのか施設なのか、あるいは家でなのか。
どこであろうが、安心して死に行くことが出来る。そういう社会になってこそ、本当の意味での幸福な社会と言えるのではないだろうか?

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