六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

咲いたとおもったら、散り初め。

桜が咲いた。例年に比べると開花が遅れた今年の桜。
約束を違えることなく咲く花は、今年もやはり美しい。


ようやく、満開になった桜だが、満開になれば後は散っていくばかり。しかも満開になった途端に連日の雨ときている…花を散らす細い雨が今日も降り続いている。


寂しいけれど、今年の桜は驚くほど短命なようだ。


新年度に入っても、職場の状況は悪くなるばかりで心を、どんどん、どんどん、すり減らしていた。それでも桜を見ていると心が和むのだから、不思議なものだ。


もう少し、あと少し、その美しい姿を留めていてほしい。
そう願ってはみるけれど、桜の花は潔癖なほどに散り急ぐ。
潔いにもほどがある。


でも、そういう所にも桜が愛される理由はあるのだろう。


一生のうちで、あと何度この時期を迎えることができるだろう。あと何回、桜が見られるだろう。お年寄りと深く関わる仕事をしていると、ふと、そんなことを思ったりする。
だって、去年一緒に桜を見たお爺さんやお婆さんが、今年はもう居ないのだもの。


桜が散ってしまうその前に、もう一度その姿を心に焼き付けておきたいと思う。

盛衰の狭間で

思えば9年間。僕はユニットケアを標榜する新型特養であるこの事業所で夢を追いかけ続け、時には挫折を味わいながらも、それでも、これが自分の進むべき道だと信じて、事業所運営の根幹を形作ろうと努力を続けて来た。


有難いことに、共感してくれる多くの仲間達が逆境に晒された時にも僕の事をいつも支えてくれていた。だから僕は努力を続けたし、迷うことなくその道を順調に前を見て歩むことが出来た。


だが、今の状況は違う。決定的に、圧倒的に、そして全否定的に僕の置かれている状況はかつての挫折感とはまるで違う、別次元の混沌と欺瞞と破滅の色、それを混ぜ合わせた暗黒色に染まっている。


おそらく、結局はどんな綺麗な事を言っても答えなど出ない。


結局は金だ。金が無いから、採算が取れないから、ユニットケアなどは、個別ケアなどは、質の高いケアなどは、絵に描いたモチに過ぎなくなってしまうのだ。


組織を運営する上で、資金が必要なことは自明の理であり、言われるまでも無くそんなことは分かっている。


社会が、介護に無関心であることも、政府が資本主義的正義の旗を振りかざしていることも重々承知の上で、敢えて言う。


ならば、それならば、資本主義の行き着く先と超高齢社会、多死社会の狭間に揺れる僕らの祖父や祖母、父や母は、どの世界に身を置いて生きれば良いと言うのだ?


誰もその問いには答えてくれず、僕は、途方に暮れる。


答えなど実は存在しない、複雑で意地の悪い全否定的な方程式。


そんな方程式の解を解けと、耳鳴りがするぐらいに、がなり立てている誰かが。


僕の頭の中に、根源的世界の果てに、破壊的神秘性を帯びながら、今も尚、巣くっている。









訳が分からねぇ。

今日、職場で会議があった。事業所運営の責任者が集う会議。


次年度の方向性も含め雑多な事柄を話し合うのだけれど、どうにもこうにも、次年度の職員配置や職員体制が不透明なままで話し合いをしようとするものだから…なんだか訳が分からない。


次年度はうちのサブリーダーが引き抜かれて他事業所へ、代わりに来るのはどうにも育たない3年目か4年目くらいの若造。更に一人欠員が出る予定で、その補充はこの期に及んでも未確定。だから次年度の構想も、新人教育の方向性も全く考えられる状態では無い。はっきり言ってこれは強烈なストレスだ。材料が揃わない状態で、次年度の目標を立てさせられ、その達成のための具体的な取り組み内容を発表させられ…本当に、心が萎える。


新年度の構想だって、新しい職員の教育だって、結局、やらなければならないのは僕ら現場の職員だ。管理職は現場の悲鳴なんかまるで聞こえない場所で金勘定に勤しむだけ。



追い打ちをかけるように、うちの施設長が言い放つ。


我々の時代とは違う、職員の質の担保など困難だ…ケアの質を落としてでも職員の確保に努めるべきだと。


馬鹿じゃなかろうか?


ケアの質を高く保ち、お年寄りの生活をより良くバージョンアップする為に働くことが僕らが介護を仕事とする上での最たる喜びであるはずなのに。


そう言うと、更に管理職は言い放つ。それを喜びと感じられるのは六鹿君だから。
そんな物には、若者は共感してくれないと。そんなことよりもっと介護を知らない、出来ない人でも出来る仕事の方法を考えてみなって。


ふ~ん。
そうか。だったら俺は退場だな。


そんなもの、そんなことの為にここで働く気は僕には無い。訳が分からない。


訳も分からぬままに、桜と共に間違いなく次年度はやってくる。