どやねん、こらー!!
と叫ぶ。
すると腹が痛くなる。
まるで臍を取られたかのように。
それで、昨日の明け方に鳴った雷様に、僕は臍を押さえた。
これを取られてはたまらない。
こんなもの要らないけど、絶対取られるのは嫌だ。
オカンと、間違いなく繋がっていた、臍。
要らないんだけど。でも取られるのは、やっぱり嫌だ。
それで僕は、要らないとは思いながらも、今日も臍を大切にしている。
どやねん、こらー!!
と叫ぶ。
すると腹が痛くなる。
まるで臍を取られたかのように。
それで、昨日の明け方に鳴った雷様に、僕は臍を押さえた。
これを取られてはたまらない。
こんなもの要らないけど、絶対取られるのは嫌だ。
オカンと、間違いなく繋がっていた、臍。
要らないんだけど。でも取られるのは、やっぱり嫌だ。
それで僕は、要らないとは思いながらも、今日も臍を大切にしている。
高みへと心を弾ませながら登っていく。
どんどんと視界が広がって世界が丸く見えた。
こんなにも世界は美しいのだと感嘆し、僕は生きていることに心から感謝をする。
感謝が心を満たし、空に向かって手を広げた所に頂点があった。
空が驚くほど、近い。
そうして、空を見上げている間に下降は始まる。
そんなはずは無い。降りたいなんて思わない。僕は降りたいなんて一言も言っていない。
けれど下降は止まらない。決して、止まることを知らない。
世界は徐々に丸みを失い、美しさを損なった平板な二次元的世界へと少しずつ、帰って行く。
心は醒め、身体は冷え、五感を奪われるような感覚に打ちひしがれながら、下降は永遠のように果てしなく続いていく。
目を瞑り、耳を塞ぎ、息を止める。まるで、底なしの井戸に放り込まれたカエルのように。
そうやって、どれくらいの時間が流れたのだろう?
やがて光が、遠くに見えた。
いつの間にか下降を終えた観覧車は、過去をなぞる様に再び上昇に転じていたのだ。
そうなのか。
そういうことを繰り返して、僕らは生きている。
仕事は楽しい方が良い。
そりゃそうだ。
けれど、仕事は苦しいことも多い。
苦しくなって、逃げたくなることだってある。
それでも人として生きて、自らの営みを全うする為には、働かなきゃならない。
働くからこそ、人としての社会的役割を果たすことが出来るのだから。
であるならば、仕事は楽しい方がやっぱり良い。どうせ働かなければならないのなら。
そうして、ふと考える。
介護職は楽しいか?それとも苦しみの方が随分と多いのか?
昔はそんなこと…考えたことも無かった気がする。
介護職として働いて、一生懸命になって働いて、もちろん苦しいことも、あっただろうけど、そんな風に、楽しさと苦しみを天秤にかけて考えることなんて無かった。
いつの間にか、それが、変わって行った。歳月の過ぎ行く中に、不確かな確実さで。
つまらない御託を並べる上司や、陰鬱な表情で働く部下の狭間で。
詐欺的な介護保険と、厚労省の机上の空論の波間で。
高齢者への世間の無理解と、生きることの意味を見いだせない若者たちの隔絶の下で。
あるいは、世界が老いて縮小する時期にあって今尚、肥大することを夢見る欺瞞に満ちた誇大広告に取り込まれて生き続けた末に。
こんなはずじゃなかっただろ?
歴史にいつか、僕たちは、否応なく問い詰められる。
濁った光を放つ太陽の、その真下で。