六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

そこに山があるから山に登るわけでは無い。

ここ数年、山登りを趣味としている。
この趣味は、昔馴染みの友人から近畿最高峰の伊吹山登山に誘われたことに端を発している。
それ以来、冬季以外は月に1回以上のペースで山に登るようになった。


どちらかというと体力に自信がある方では無い僕が、山に登り続ける理由。
とにかく、登っている時の自分が格好良く思えたこと。そして下山した後にへとへとになりながらも、その山を振り仰いで「あんな高い所まで登れたんや。」と、自信に変えることができたからだ。


だが、それだけでは無いことに今日気付いた。


今日は休日で午前中に時間があったため、京都の右京区にある妙心寺まで蓮の花を見に出かけることにした。境内にある庭の、蓮の花を愛でることが目的。
隣接するパーキングに車を止め、冷房の効いた車内から降り立った瞬間、焼け焦げたアスファルトの熱気に襲われて軽い眩暈がした。
それが…。
境内に足を踏み入れ、奥へ奥へと進むうちに、清々しく心地よい風が吹き始めるではないか。
天へと真っ直ぐに伸びる赤松。地表に葉を降ろすまでに樹齢を重ねた枝垂れの老木。青々とした葉を四方に伸ばして光を遮る楓。水琴窟の小さいけれど心に響く音色。アスファルトに囲まれた中で聞くのとは、まるで違う夏に命を吹き込むような蝉の声色。
苔むした石の道には打ち水がされ、清らかな冷気が凛と立ち昇る。
日々の仕事の疲れやストレスを、それらの事共が、静かに、しかし躊躇することなく押し流していく。


その時に、ハッと気が付いた。


そうか、自然の中に抱かれると、こんなにも心地良いものなのか。
そうだ、私の心が山に向かうのは、それを感じる為でもあるのだ。


今までは山登りで得られる「高揚感」に目を向けるばかりだった。それは言いかえれば心の「動」の部分の動きだ。
けれど、今日、この場に立って感じた「静」の心の動きは、山登りの途中で出会う様々な光景を見て感じたものと実は同じだったのだ。乱れる呼吸と、体中を流れる汗の為に、山登りの最中には、そのことに気づく余裕は無かった。しかし今日、心静かにして感じたこの気持ちは、山を登る中で潜在的に感じていた心の動きと同じ物だと気が付いたのだ。


あぁ、そうか、だから僕は山に登り続けていたんだ。


今日はそのことに気付くことができた。
潜在的にあった意識が顕在化した瞬間だった。


明日からも、仕事に精を出そう。そしてまた山に登って生気を養おう。
なぜだか、今もって尚、心が清々しい。


×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。