六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

カリスマの不在。


架空の話をしよう。


1000人規模の組織がある。その組織は一人のカリスマに率いられて、世間からも一定の評価を得て組織としての活動を続けていた。


しかし、突然にカリスマが不在になる。


その後、その組織は、どうなったか?という話。


例えば、戦国時代、甲斐の虎として周辺諸国から恐れられていた武田信玄。
一時は後の天下人である徳川家康を死地にまで追い詰めた男だ。
彼の組織である武田騎馬軍団は彼のカリスマ性によって勇猛果敢に戦い周辺諸国を切り従えた。


しかし、天運味方せず、天下に号令すべく京の都を目指す途上で彼は病に倒れ、この世を去った。


その後、息子の勝頼に武田家の将来は託される。
しかし息子には父親ほどのカリスマ性は無かった。
父親の残した武田騎馬軍団を率いて、勇猛果敢に戦に挑み続けるが、いつの間にか彼は父親時代からの重臣たちに見放されていった。理由は簡単だ。父親が凄すぎたのだ。しかもややこしい事に彼は妾腹だった、つまり正妻の子ではなかったのだ。それも災いした。


信長の率いる鉄砲隊に散々に打ち負かされた長篠では、父親子飼いの重臣たちが先を競って死地を求めて騎馬を駆ったそうだ。
「親父には世話になったけど、息子はどうもなぁ。だからって裏切るわけにも行かんし、もうええわ。親父さんに殉じてあの世に行こか。」
そんな気分で組織の屋台骨たちが、どんどんと戦死していった。


そうして最後、武田家は追い詰められた果ての天目山で、一族郎党、浄土へと旅立っていく。


カリスマの不在は重大だ。


組織の滅亡すら孕むほどの重大事だ。


だが、カリスマ不在後も、組織が立ち直って、新たな道を歩み始め、
成功する例だって沢山ある。


例えば、明治時代の武市半平太がその好例だろう。
彼は土佐勤王党を組織し、その当時政治の中心地であった京都に進出、尊王攘夷を唱えて新しい日本を創る為に奔走する。急進的な手法で、反対するものを暗殺する暗さはあったが国を救うための志は高かった。彼は間違いなく土佐勤王党のカリスマだった。
しかし、その急進的な手法が仇となり、土佐藩主から切腹を申し付けられるに至る。
彼は、腹を縦一本、横三本に切り刻んで、死んでいった。


しかし、その後、新たなカリスマである坂本龍馬、後藤象二郎、板垣退助が現れる。彼らは武市の志を引き継いで組織を更に強大にしていく。


要は、カリスマ亡き後の組織の浮沈は、新しいカリスマが登場するかどうかにかかっているということだ。


いや、もう一つ言い添えよう。


「カリスマに頼らない、組織運営の道だって存在するはずだ」ということ。


カリスマが居てくれれば、確かに組織は楽だ。
だって、カリスマについて行けば良いんだもの。


だけど、楽じゃなくても、カリスマ無しで歩む道は絶対にあるはずだ。


それは「組織全体で理念を共有すること」だと、僕は思っている。
組織の構成員の全てが、同じ思いを持ち、同じベクトルに向かって歩を進めるという道。


その道は、確かに容易では無い。
1000人の組織ならば1000通りの考え方があるからだ。
例えば組織の理念を高唱したところで、そこに同調できない人間も現れるだろう。
そういう理念は一部の人間が、雑多な議論を避けて組織の看板的に立ち上げた、外向けの理念に過ぎない。


丁寧に、組織の全ての人の想いに寄り添いながら理念は育まれるべきだ。
個人の勝手気ままの欲望を排し、組織の中の役割を知覚させ、組織を社会の為にどう役立たせたいかを考えさせて発信させる。
そうすれば「これだけは」「この一所だけは」と誰もが心を通い合わせることの出来る道が、実は必ずあるはずなのだ。


それを探さなければならない。
組織の中で、腹を割って話しながら。そして組織の外にも目を向けながら。時には、対立し争いが生じたとしても。


人は一人では、何事も成すことが出来ない。だから組織が生まれるのだ。


何事を成すための組織なのかを皆で真剣に考えれば、いずれ「これだけは」「この一所だけは」はと言う共通理念は必ず見つけられる。


カリスマ頼みは、これで止めよう。


真にブランド力のある組織へ進化する為に。



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