六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

定年?退職。

今日。長らく共に働いたパートさんが最後の出勤日を迎えられた。いわゆる、定年退職。
7年近く一緒に働いてきたパートさんで、名残惜しくて、何だかすごく切ない。


週4回の午前中のパートさん、最初は派遣社員として僕の施設で働き始められた。


7年前と言えば、僕は30代前半。パートさんは50代前半。
まぁ、のんびりした性格の人だったので、気の短い僕は彼女に対してきつく当たることも多かった。
でも、彼女は自分のペースを崩さない。僕の仕事のスピードについてくるように何度も促したが全く気にしない。でも、丁寧に仕事はして下さる。
思えば失礼なことも沢山言ったような気がする。息子のような職員に叱責を受けて不快で無かった訳がない。
しかし、彼女は凄い。全くめげないし、イラついた顔をする僕の顔を見ても微笑むことが出来る人なのだ。


そして僕は気が付いた。僕のスピードについて来ようとさせることの愚かさを。
ゆっくりだけれど丁寧に仕事をしてくださる彼女には、彼女のペースで働いてもらうべきで、僕のようなスピードを彼女に求めること自体、間違っていたのだと。彼女のペースを見ながら、共にお年寄りに快適に過ごして頂くための努力をすれば良いのだと言うことを。


僕は彼女のことを「お母さん」と呼んでいた。自然にそう呼ぶようになった。
本当にオカンみたいな人だった。
折り紙や縫物が上手で、お年寄りと一緒に、そういうことをしている時のお母さんは本当に生き生きとしていて、その様子を見ているだけで僕の顔は、ほころんだ。
折り紙で僕の息子にスーパーマリオを折ってくれたこともある。


東北地方出身の方で、2011年の震災の時には実家の海苔加工工場も被害を受けたようで、酷く心配をされていた。幸いにも工場の立ち直りは早く、実家に帰るたびに僕らへのお土産に海苔を持って帰ってきて下さる。この海苔が、また絶品で…東北の癒しきれない傷跡を感じながらも、そこに生きる人々の逞しさを思う、きっかけを下さった。


昨年の今頃だった。お母さんから相談を受けた。「六鹿君。私、60歳になるの。だから今年いっぱいで定年退職させてもらうわ。」と。


「なに言うてんねんな。お母さん、まだまだ若いがな。働けるだけ働いてぇなぁ。」「お母さん居てくれなんだら寂しいがな。」「今は70くらいまで働く人も多いで。」と引き留める僕。


「やっぱり、違うの。体がなぁ…ついていかへんの。」お母さんはそう言いながら悲しそうな目をする。


「あかん、そんなん困る。寂しい。しんどいなら、勤務時間短くするとか、日を減らすとか。そんなんやったらあかんのかいな?」僕も必死になって切り返す。


「ほんとに。体がなぁ…。それに60になったら、好きなこともしたいの…。」
そういうお母さんの悲しげな表情に僕はいつしか言葉を返すことが出来なくなっていた。


そうして僕は卑怯なことを言う。
「わかった。退職は分かった。けどな、4月に辞める言われても、次の人が見つからへん。僕ら、ごっつ困る。お母さんおらんようになったら、ごっつ、しんどなる。お母さん頼むわ。僕に免じてあと半年だけ働いて。頼みます。それ以上は言わへんから。半年の間に人事に掛け合って、新しい人探すから。それまで待って。」


お母さんがその時にどう思ったのかは分からないが、「わかりました。10月までね。10月まで頑張るわ」と言って下さった。


卑怯なこと言うてしもたなぁと、若干自己嫌悪に陥りつつ…心の底では、お母さんともう少し一緒に居ることが出来るという安堵感が、確かに僕の中にはあった。
まるで乳離れできない幼児みたいな…。やれやれ、更なる自己嫌悪…。


そうして、今日の日を迎えた。
夜勤明けの僕は、お母さんの出勤してくる時間を待った。
お母さんの職場での最後の雄姿を一目だけでも見たかったのだ。


お母さんはいつもと変わらず、のんびりとした表情で、出勤された。
いつもの光景だけど、最後の光景。


待っていたとは言わずに、庄内旅行の御土産を手渡した。
お母さんはやっぱり、のんびりしたことを言いながら僕に礼を言う。
僕は普段と同じように軽口をたたき、それでも、お母さんに「有難う」と、心からお礼を言う。


お母さん。ありがとな。これからは好きなこと一杯して、楽しく暮らしてやぁ。たまには僕らにも顔見せに来てやぁ。


定年退職はこうでなくっちゃね。惜しまれながら、去って行く。
最後の最後まで、お母さんには沢山のこと教えてもらいました。
僕も、お母さんみたいに人から好かれて、退職していきたいと思っています。ほんまに、ありがとね。



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