いつまでも、居ない。
先日。僕に「伊田」の名前を下さったお婆さんが亡くなった。
以前僕が働いていた従来型の特養で、もう20年近く暮らしてこられた方だ。
独自の世界に入り込むことが多く、入り込んじゃうと実在の世界から離れて「ヒトラー」や「聖徳太子」と交信を始める人で、横でそれを聞いていると、人間の持つ精神世界の珍妙さに震えてしまうような、なんとも不思議だけど、愛おしい人だった。大好きだった。
「今ね、ヒトラーさんとお話をしています。寿司を食べなさいって言われています。」
「でも、その横で聖徳太子さんが、ケーキの方を勧めるの…」
「私は、どちらも選べないわ。」
そんなことを言われて出前寿司を頼んだり。山の麓のケーキ屋まで車を走らせたり。
そうかと思うと僕のことを「伊田さん」と呼び、ニッコリ微笑んで「あなたは本当に綺麗な顔をしてますね。」と褒めてくれたり。微笑むと歯が一本で、この顔がまた、すこぶる可愛くて。
風の便りで、体調が良くない、食事が入っていないということは知っていた。
近いうちに、会いに行かなきゃとも思っていた。
でも結局、間に合わなかった。
これだけ沢山の人の死に接する仕事をしているのに…。分かっているのに…。
彼女だけは、ずっと居続けていてくれるような気がしていた。
でも、そんなことはあり得ないんだよ。いつまでも、居ない。
自分も、自分の周囲の愛しい人々も。
いつまでも、居ないんだよな…。