六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

孤立と孤独。

職場や学校において、集団や社会において、一人ぽつねんと孤立する人々を見かけることがある。
ただ、その人が孤独を感じているかどうかは、その人の心の持ち様による。
つまり「孤立」とは、周囲の人間が客観的に見て感じるものであり「孤独」とは、その人が感じる主観的なものだ。


僕も、もう20年以上前になるが中学三年生の頃にクラスの中で孤立を体験したことがある。
クラスのボス的な存在のラグビー部員に目をつけられ、教室で皆が見守る中、ボコボコに殴られたことがきっかけだった。ヒョロヒョロで喧嘩には不向きな体格の僕だったが負けん気だけは人一倍強かった。売られた喧嘩を買わないわけには行かない。
止せばいいのに躍りかかってきたラグビー部員の顔面にパンチを一発お見舞い。しかし、そんなヒョロヒョロパンチが彼に効く訳もなく、そのまま馬乗りになられて、殴られ、蹴られ。ボッコボコ。
男同士のタイマンなので、別に助けて欲しいとも思わなかったがクラスの皆は歓声をあげながら、その光景を見守るだけだった。やがてチャイムが鳴り、ラグビー部員は殴るのを止めて立ち上がり僕はボロボロになりながら埃をはたいて自分の席についた。
それ以来、僕はクラスの誰とも話をしなくなった。休み時間は一人で絵を描いていたし、弁当も一人で食べていた。いじめに発展するようなことは無かったが、とにかく僕はクラスの中で孤立していった。
けれど、不思議なことに孤独だとは思わなかった。
所属する吹奏楽部に行けば笑いあえる仲間達が居たし、クラスで孤立していることを心配して気にかけてくれる先生も居たからだろう。客観的に見て孤立している僕だったが、本人は然程、それを苦にしていなかったし周囲が思うほど孤独を感じていたわけでは無かったのだ。



一人暮らしのお年寄りが社会的に孤立をし、ただ一人ひっそりと孤独死をするという事件が後を絶たない。
社会的な孤立と貧困は密接な関わりを持つ。お金が無いことにより社交費が真っ先に削られ、他人との関わりが希薄になっていくことにより孤立が深まっていくと言われている。
助けを呼ぶこともできず、孤立が深まった結果、一人寂しく誰にも看取られずに死んで行くお年寄りが日本のあちこちに存在する。
阪神大震災後、あるいは東北の震災のあと、仮設住宅等において死後幾日も経過した遺体が見つかったという話がニュースを賑わせた。痛ましい気持ちになった。
貧困に加えて、社会的な関係性が災害によって絶たれたことが大きな原因だろう。


孤立と孤独の違いを考えた時に、果たして、看取られずに死んで行ったお年寄りは「孤立死」だったのか?「孤独死」だったのか?ということを良く考える。
一人寂しく死んで行くことに然程、悲しみを覚えることなくこの世を去った人だっているのかも知れない。そんな風に考えないとやりきれない気分になる時があるのだ。


いずれにせよ、孤独死の問題は行政の責任で解決をしていく必要がある。もちろん周囲のその様なお年寄りに声をかけるという世間の姿勢も大切だろう。
独居老人が500万人を超えた現在の日本。孤立死は、やはり増えて行くのだろう。けれど、孤独を感じずに旅立てるように心を傾けてくれる存在が近くに居れば、それは随分安らかな眠りに変わるのではないだろうか?
かつての僕に吹奏楽部の仲間達や先生が居てくれたように、周囲のお年寄りに心を配ることのできる存在が必要なのではないか?
そういう心が現役世代の多くの人に広がれば、孤独死の暗闇からお年寄りを救う一助となるのかも知れない。



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