六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

認知症について。

もともと、僕が介護業界に足を踏み入れた頃には「認知症」は痴呆症と呼ばれていた。
それが、いつの間にか「認知症」と名前が変わって行った。


誰の、どういう意見があって、そうなったのかは良く分からない。
最初は違和感のある命名だと思っていたが、今ではすっきりと世間にも馴染んでいる。


しかし、今でもより深く考えると、この命名は良く分からない。
「認知機能の障害」だから「認知症」?…変な日本語。


日本語の字面的に見ると「認知機能障害症」の方が正しいような気もするが、それじゃあ長すぎて一般に認知されにくいから「認知症」ってことなのかな?


ただ、痴呆症と呼ばれていた頃のお年寄りと、今の認知症のお年寄り。
名前が変わって何か変化があったのだろうか?
つまり、世間の認知症に対する理解が進んだり、その様なお年寄りに対する偏見が少なくなったり、そういう効果をこの「名称変更」が促しているだろうか?
もしそうで無かったとすれば、痴呆症のままで良かったんじゃない?
何となく、僕のイメージでは「痴呆症」の方が柔らかくて暖かくて、「じっちゃん」「ばっちゃん」て子や孫が澄んだ眼差しで彼らを見守るような…そんな感じがするのだ。


今から40年ほど前に「恍惚の人」という小説が発表され、痴呆性老人の問題が世間に広く認知されるようになった。これは痴呆性老人を抱える家庭の「嫁」の立場から見た世界を綴った小説だ。
当時、その様なお年寄りは家庭の中に隠されるか、あるいは社会から無視されるかして世の中に顕在化していくことが稀であった。
それより以前にももちろん、「呆け老人」は存在したが、絶対的な数が少なかった。
つまり、医学の進歩が人類の寿命を延ばしたことによって体が壊れるよりも先に頭脳が侵されるケースが多くなっていったということなのだろう。
そして、その様な状況が社会に及ぼす影響を描いた小説が40年前に初めて登場したというわけだ。


今でも推計500万人。今後も認知症のお年寄りは増え続ける。絶対的に、加速度的に。


ただ「それでも、長生きは素晴らしい。」と断言できるだけの高齢者との出会いを僕は経験してきた。


認知症の高齢者は混沌とした今を生きてはいる。そして、誰かの助けを必要とされている。
確かに、認知症ケアにストレスを感じることだってある。
しかし、人が人として、その生を全うする姿。
その人生の重み。生命の輝き。それを目の当たりにする時。
若い世代の心にも多くの学びを与えてくれる。
そういうものを、強く感じさせてくれることも、紛れもない事実なのだ。


認知症の方々との関わりの中から、僕が成長をしていったこと。
本当に素晴らしい出会いがあったこと。
それらの事柄は機会を改めて綴りたいと思う。


とにかく、たとえ認知症を患っても、人が人としての尊厳を守りながら生きて行くことが出来る社会を目指して行く必要があるだろう。
その社会の構築のためには、もっと多くの人々が認知症のことを良く理解する必要がある。
そういう取り組みも徐々に広がっている。そこに多くの方が参画してもらえるように。僕自身も発信を続けて行きたいと思う。

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