六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

介護を続ける心。

もともと、僕は介護業界のことをあまり良く知らない人間だった。
老人ホームの存在は知っていたが、そこは現代の姥捨て山だと思っていたし、自分や自分の家族には全く関係の無いところだと感じていた。
そんな僕がこの業界に飛び込んで14年。
今振り返って見ても、よく辞めることなく続けてこられたものだと思う。
もともと飽き性だし、奉仕の精神も旺盛では無い僕が、ずっとこの仕事を続け、おそらくこれから先20年以上は続けるであろう介護のお仕事。なんで続けることができるのか?考えてみた。


認知症ケアはストレスが溜まる。排せつ介助は、正直、臭う。重たい人の介助は腰が痛い。お年寄りに引っ掻かれたことも、噛みつかれたこともある。夜勤もあれば早朝からのシフトもあり、日曜だって休めない。残業だって、ここ数年はしないことにしているが、以前は毎日1~2時間は当たり前だった。


それでも、続けることができる。


楽しいことや、心が暖かくなる出来事が、苦しいこと以上に沢山あるからだろう。
そして何より、お年寄りの長い長い人生の最期に。その人生の結晶に触れ、関わることができる。たぶん、それだからこの仕事は辞められないのだ。


そして、もう一つ。僕の介護を続ける心の根底に流れるもの。


幼いころ、僕の側にはいつも爺ちゃんが居てくれた。
寅吉爺ちゃん。大正生まれで、幼いころから丁稚奉公。若いころにアメリカとの戦争が始まり兵役検査を受けるも虚弱体質の為に兵隊にはなれず。結婚はしたが嫁(もちろん僕の婆ちゃん)からは疎まれ、子供もできずに養子(つまり僕の父)をもらい。酒もたばこもやらずに、定年まで京都の電池工場でひたすら働き続けた。とにかくまじめな人。


寅吉さんの膝の上は、いつも僕の特等席だった。
夜の暗闇を怖がる幼い僕の手を、優しく握りながら眠ってくれる。
草野球のピッチャーだった僕の投球練習には、いつでも付き合ってくれた。
一人ぼっちで遊んでいると、必ずそばに来て微笑んでくれる。
桂川の川辺で、一緒にザリガニ釣りもした。セミやバッタも捕まえた。
両親共働きで、遊び相手の少なかった僕の一番側に居た人が寅吉さんだった。


そんな寅吉さんが死んだのは僕が高校生の時だった。
幼かった僕も、中学、高校と成長するにつれ、寅吉さんからも卒業をしていった。
それでも、婆ちゃんとは別居状態だった寅吉さんは僕の家で寝泊まりを続けていた。
思春期の僕にはそれが鬱陶しくもあったし情けなくもあった。
少し認知症の兆しが見え始めた寅吉さん。
ある日の夕方。午前中に自分で買ってきたバナナを握りしめて、嬉しそうに「お前が買ってきてくれたんか?」と僕に微笑んだ。
「ボケとんな、このジジイ」そう心の中で呟き、僕は彼を無視した。
寅吉さんは何を言うでもなく、バナナを片手に握ったまま僕の目の前から寂しそうに去っていった。


それから間もなくだった。寅吉さんは、病院でひと月ほど闘病し、胃がんでこの世を去った。
ちょうど、期末試験前だったこともあり寅吉さんの死ぬ直前まで僕は病院に行くことをしなかった。
危篤と聞いて、仕方なしに病院に赴いた僕の目の前には色んな管を身体中に突っ込まれて意識の無い寅吉さんの無残な姿があった。
そして医者は言う。
「自分では生命の維持が出来ない状態です。」
そして僕の父親が言う。
「わかりました。楽にしてやって下さい。」


家族全員が揃ったところで、寅吉さんの周囲を覆っていた様々な機器の電源が切られ「ご臨終です」と医者が静かに宣告。寅吉さんは天へと旅立った。



思春期の混沌の中にあったとは言え、俺、冷たかったよな。もう少し寅吉さんに優しい言葉をかけてあげれば良かったな…
後年、僕はそういう風に思うようになった。


僕の介護を続ける心の根底には寅吉さんの存在がある。
優しかった寅吉さんへの感謝。思春期に彼に優しく出来なかったことへの後悔。


そんな思いが、今でも僕の介護を続ける心の根底に流れ続けている。

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