六鹿宿

介護保険発足直後から介護の世界で働いている僕が見たり聞いたり感じたことを綴っています。

介護労働者という主張。

介護に携わる人々。
それらの人々が従事する仕事を、あたかも聖職であるかのように世間の人々は錯覚している。
自分を犠牲にして、お年寄りに奉仕する姿こそが正しいと信じられているのだろう。
でもそれは違う、少なくとも僕は違う。僕は介護職である前に介護労働者だ。
プロとしての仕事はするが、自分のプライベートまで犠牲にして仕事をしようとは思わない。


一般の労働者と同じでプロ意識はあるが、労働者としての権利は主張する。


肢体不自由、認知症、様々なお年寄りがいて、そういう職場で働く以上は、そういう不自由をできる限り感じることなく残りの命を全うしてもらう為に全力は尽くす。
けれども、それは報酬をもらい専門性のある仕事をしているからであって、それ以上でもそれ以下でもない。



福祉の職場には、まるで神様か仏様のような奉仕者が多い。
しかし、そういう人たちに限ってプロ意識が欠落していたり、お仕着せの介護をしていたりする。



サービス業であるから、もちろんお年寄りの快適性に敏感であらねばならないけれど、それがお仕着せであると単なる有難迷惑でしかなかったりもする。


どういうことか…。


あるお年寄りが、依存的に「靴を履かして」「ご飯食べさせて」と訴えられる。それらは自分で十分に出来ることのはずなのに。
それを、そのまま奉仕者たちは「どうぞ~」と言いながら言われるがままに実行する。
それを繰り返した結果、そのお年寄りは本当に靴を履くことも食事をすることも自分では出来なくなる。
大げさでは無く、そういうことが福祉の現場、お年寄りの生活の場では起こり得るのだ。



一生懸命、認知症の方の訴えを時間をかけて聞き続ける奉仕者もいる。
一定、傾聴はテクニックではあるが度を過ぎると自己満足でしかない。不穏者一人に集中している間に、隣で誰かが転倒し大けがをしているってことだってあり得るのだ。
だから、そういう古典的介護職に、もう一度言っておきたい。



介護がプロの仕事として成立するためには、単純に奉仕者であることに固執したり、優しさをウリにするだけでは駄目なのだ。
お年寄りの個別のニーズに応えるためには、集団生活におけるバランスにも注視しなければならないし、そこをうまく切り盛りできなければならないのだ。



個の為に、一生懸命になり、その笑顔に満足している裏側で何が起こっているのかにも目を向けるべきだろう。


そして、なんでもかんでも引き受けて残業しまくる奉仕者にも言っておこう。
それは、自己満足の領域でしかない。
自分のプライベートも充実させ、プロとしての研鑽を積み、平衡感覚を持って仕事に立ち向かえるものこそプロフェッショナルなのであり、自己犠牲をウリにする者がこの業界に幅を利かせているいる限り、いつまでたっても介護職の世間的な地位は上がって行きはしない。
奉仕者が蔓延する業界の現状は、宗教団体に酷似している。
介護労働者としての権利を主張する人々が、この業界の主役になって初めて、社会的な地位を介護職が確立できると僕は信じている。

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